お茶をおいしく飲むための知識

本物の味と出会うためには「待つ」ことがたい説

残念なことに、一般に市販されている最近のお茶は、とてもおいしいです。これには、生産者の生産システムや流通の問題、消費者のお茶に対するかかわり方などが根にあると思います。
まず、消費者の問題を考えると、じっくりと時間をかけてお茶とつきあう人が減っているというのが大きな要因でしょうね。急須にお湯を入れたら、待つことなく注いでしまう。もちろん、短時間で簡単に色が出る手軽なお茶(例えば紛っぼい深蒸し茶) が出回っていることが原因ではありますが、これでは、本物の味と出会うことはできません。本物に出会うためには、待つことの大切さを知ってほしい。人間だって同じですよね。お茶は本来、時間をかけていただくべきもの。
急須にお湯を注いだら、あせらずにじっくりと待つこと。それが、おいしさを知るきっかけにもなるはずです。

低温での『2度注ぎ』がお茶のおいしさを引手出す

実践しているおいしいお茶の入れ方をご紹介しましょう。
まず、95度に保ってあるポットのお湯を大きな湯冷しに入れ、さらに、そのお湯を少量ずつ湯のみ茶碗に注ぎ分けます。1分半ほど待って、お湯の温度が60度から70度になったら、茶葉を入れた急須に湯のみ茶碗のお湯を注ぎます。お湯の量は茶葉が隠れるくらいがちょうどいい。30秒程待ったら、今度は湯冷しに入れたお湯を急須に足し、ゆっくりと湯のみ茶碗に注ぎます。これで、おいしいお茶がいただけま。私の入れ方を『二度注ぎ』といいますが、低温のお湯を使うと、お茶からカテキンやテアニンなどのさまざまな成分が抽出されます。それだけ、おいしさも増すというわけです。こんなふうにじっくりと時間をかけてきた原因は、やはり茶問屋、生産者側に問題があるでしょう。

ひとつは、生産第一主義によるシステムの変化。農薬と化学肥料の使用で生産管理が万能になったため、茶葉の持つ野性味が薄れてきた。人間でいえば肥満児ですね。製茶機械が大型になり過ぎたのも一因でしょう。
さらに考えられるのは、生産性が高い『やぶきた』という茶葉の品種が、全国制覇をしてしまったこと。現在、日本にある茶園の70 %は『やぶきた』です。品種としてはもちろん優良種ですし、大衆茶としては必要なものですが、それだけではつまらない。お茶本来の味と香りが、失われているように思います。
『甘涼しい』という表現が好きなんですよ。昔は、まさに甘涼しいお茶が、いつでも飲めたものです。生産性だけにこだわらず、本物のお茶の味を残していってほしいと思います。

生産者の顔が見えないブレンド茶

茶葉の種類は、大きく品種と産地に分けることができ、品種別、地域別で、それぞれの個性が味わえます。味も香りもまったく違うんですよ。現在、小売店で販売しているお茶は、いくつかの品種と地域をブレンドしたもの。残念なことに、交じり気のないストレート茶を一般の小売店で手に入れるのは難しい。ブレンドすることの問題点は、品種の純粋さが味わえないことと、生産者の顔が見えてこないこと。どの地域のお茶を混ぜているのか、私たちにはわからない。日本酒の蔵元のように、お茶も生産者の氏素姓をはっきりさせてほしいと老えています。

自分でブレンドした緑茶は格別

10年ほど前から、日本各地のお茶を取り寄せ、自分でブレンドするようになりました。毎朝飲む煎茶は、私のオリジナル・ブレンド。じっくりと神経を使って入れています。ストレートで飲んだときに味わえるそれぞれの個性が、ブレンドしたことで、また格別のおいしさになるんです。例えば、出足早の静岡茶に宇治茶を混ぜると、ゆったりとした奥深い味が加わります。ブレンドの組み合わせは、その日の気分次第。毎朝、違う味わいを楽しんでいます。私が飲んでいるお茶は、氏素姓がはっきりしているので、とても安心なんですよ。実際に産地も訪れていますから、茶葉が育った土や山の様子、それに生産者の顔も目に浮かびます。茶葉が蒸れるのを待つのも楽しいです。

お茶の歴史

中国二千年の歴史を持つお茶のルーツ

お茶の木はもともと、中国の雲南地方に自生していた植物で、ヒマラヤ山脈の南禁からブータン、インドのアッサム、東南アジア北部の産地、揚子江の南岸から日本の西南部を経て、世界中に広がっていったと考えられています。
紀元前2700年、漢方医学の祖とされる伝説上の神、神農が、野草の効能を調べているとき、毒草にあたるとお茶で解毒していたと伝えられています。
この説話は、760年ごろに、陸羽が著した『茶経』のなかに紹介されています。3世紀ごろには、お茶の葉を固めた「団茶」を砕き、生萎などを加えて熱湯を注いで飲んでいたという記述が古書のなかにあります。日本に伝えられたのは平安時代の初期、最澄、空海、永忠などの僧侶が留学先の唐から持ち帰ったのが始まり。

薬として珍重されていたお茶

『日本後記』には、梵釈寺の永忠が、嵯峨天皇にお茶を献じたという記録が残っています。815年、嵯峨天皇は近畿地方に茶の栽培を命じ、お茶は当時の貴族階級の間で流行することとなります。しかしその後、お茶についての記述は鎌倉時代に入るまで一時途絶えてしまいます。臨涛宗開祖の栄西禅師は、留学先の宋から茶の種子を持ちかえり普及に努めるとともに『喫茶養生記』を著しました。わが国初の茶書である『喫茶養生記』の冒頭には「茶は養生の仙薬、延齢の妙術」と記されており、当時、薬として珍重されていたことが伺われます。こうしてお茶は禅宗と結びつき、とくに修行の妨げになる眠気を払う薬として、僧侶を中心に広がりました。

僧侶、武士、庶民へと普及していったお茶

当時のお茶の飲み方は、臼で挽いた茶葉にお湯を注ぎ茶せんでかきまぜるというものでした。14世紀ごろになると、武士を中心に茶会が開かれるようになり、室町時代には「茶の湯」というわが国独自の文化が生まれます。茶道が完成したのは16世紀。千利休の登場によってです。江戸時代になると、庶民の間で現在のように茶葉にお湯を注いで飲むという飲み方が広がります。それとともに、煎茶の製法にも改良が加えられ、手繰み技法が確立し、お茶は各地の重要な産業として発展していきます。こうして、江戸時代の終わりごろには、現在の煎茶に近い茶が登場するのです。

手もみ茶を作り畑仕事も

ひいおじいさんはお茶を食べていた

茶園で育ったせいか、もの心ついたころにはお茶を飲んでいました。お茶を飲むだけではなくて、私のひいおじいさんなどはお茶を挽いて粉にして、ごはんにかけて食べていました。
最近、お茶のふりかけとかいろいろ発売されていますけど、うちでは昔からふりかけにしていたんです。
お茶と密接な関係にある環境のせいか、私は12人兄弟の一番上ですが、私の兄弟は9人健在です。戦争がなかったらもっとたくさんの兄弟が生きていたと思います。
健在の兄弟たちはみんなもう老人ですけど、元気ですよ。私もいままで、体をこわしたことがないくらい健康です。いまも現役で畑仕事はしていますし、間伐の仕事も引き受けてやっています。品評会用の緑茶は、植えて1〜2年の茶の木の葉を使うんですが、そこの面倒もみています。まだまだ元気ですから。それから、最近ではほとんどのお茶が機械挟みで大量生産されていますが、川根もみきり流という流派で手操み茶を作っています。
お茶の手挟みは、高等小学校から挟んできましたから、もう貼年くらいお茶を挟んでいることになりますね。平成2年10月には、お茶の手操みの無形文化財の認定をいただきました。この中川根町からは2名、静岡県下では10名が認定されたんです。手挟みは、一番茶をせいろで蒸して、ほいろというお茶をよるための幅が約1間の台で行います。ほいろはガスで加熱できるようになっていて、そのムロの上に紙を敷いて4 時間くらいかけてお茶を挟んで、葉を細くよっていきます。途中で休むことはありませんから、結構体力も必要なんですよ。手挟み用の一番茶はほんの少ししか手に入らない貴重な葉です。ですから大切に挟んでいくんです。私は体を動かすことが嫌いではありませんし、健康だから続けられるんだと思います。

私の家に来た人は驚くかもしれませんが、うちの台所には茶筒と急須がたくさん並べてあって、いつでもお茶が飲めるようになっています。それくらい、お茶は頻繁に飲みます。最近緑茶の効能が一般の方にも知られるようになって、O157の騒動以来、緑茶の売り上げが上がりました。昔から寿司屋で出される「あがり」のように、緑茶には、食中毒予防の効果があることは知られていましたけど、ここまで話題にはならなかったものです。01 57は全国規模で猛威をふるいましたから、各家庭での予防対策として、手軽に飲める緑茶が選ばれたんでしょう。